結婚という名の障害
- 婚活先生
- 2017年5月24日
- 読了時間: 7分

結婚の自由が不自由な時代
言葉は悪いかもしれないし、気分を害する人もいるかもしれない。
決して、なんらかの機能障害や疾患があるというわけでもない。
しかし、誰しも「結婚の自由」があるにも関わらず、
結婚することが難しい世の中になってしまっているのは【障害】という他ないのではないかと思う。
未婚者のすべての人に当てはまるわけではない。
結婚することを望まない人もいるわけだから、
そういう人たちにとって、結婚しない自由を選択しているのだから、
それはそれとして尊重されるべきである。
とはいっても、
社会は「結婚を望まない人」を含めた未婚者に対して、
「いい人はいないのか?」とか、
「結婚しないのか?」とか、
「孫の顔がみたい。」とか、
場合によっては、
「コミュニケーション能力の欠落」が疑われてしまう。
婚活支援サイドから婚活者の人たちを見ていても、
逆に既婚者の様子を見ていても、
「個人の問題」と決めてしまうのはいささか早計のように感じてしまう。
「結婚できない日本死ね」にも書いたけれど、
【結婚したくても結婚できない】
【結婚しないと肩身が狭い(超ソロ社会の荒川和久さんの言葉を借りるなら「ソロハラ」)】
という社会的状況こそ「結婚という名の障害」を生み出しているように思う。
そもそも障害とは何なのか
身体障害や精神障害、発達障害などさまざまな障害が知られるようになってきた。
そもそも障害とは何なのか。
身体障害が分かりやすいかもしれない。
例えば、乙武さんのように生活に車椅子や介護者が欠かせない人がいる。
先天的にしろ後天的にしろ、身体に何らかの機能障害があるために、
車椅子という道具を活用したり、介護という支援を受けたりする。
これを「身体に何らかの機能障害があるためにできない」と捉えるのか、
「社会が身体に何らかの機能障害のある人に対応できていない」と捉えるかで大きく意味合いは変わる。
前者は、身体に障害を抱える人の責任になるが、
後者では、社会の責任となる。
つまり、健常者と障害者を区別するものは、
社会が対応可能かどうかによるものなのだ。
じゃぁ、障害者がすべて社会福祉におんぶに抱っこかと言えば、
社会が対応できない分は対応してもらって、
それ以外の部分は自分でしなければいけない。
健常者というのは、たまたま社会環境の中で不都合なく生きられただけに過ぎない。
障害者とは「何らかのハンディキャップを抱えた人」という価値観から、
社会によって「何らかのハンディキャップを抱えさせられた人」という価値観の方が最近の考え方には適している。
結婚の自由が個人の努力だけでは解決できなくなってきた
結婚したいのに結婚できない人を【結婚障害者】だとすれば、
嫌な思いをする人も反論がある人もいるだろうと思う。
反感を買うのも仕方なしと不安になりながら書き進めている。
今まで丁寧に説明してきたつもりだけれど、
何度も伝えるべきだと思うので書くが、
【結婚障害者】という言葉は、
「結婚できない人」を指すものではない。
「結婚したいのに、社会構造的になかなか結婚できない人」や、
「結婚する気がないのに、ソロハラに会う人」を愛情を込めて、
【結婚障害者】と称したいのだ。
【結婚障害者】とは、現代社会によって生み出された「結婚の自由が尊重されない人たち」を指す。
個人の機能障害による従来の障害だけではなく、
社会構造的に生み出される障害はたくさんある。
しかし、個人に機能障害がないのであれば、個人の努力で何とかすべきというのが基本的に考え方なのが、
現在の結婚難の時代を生み出しているように思う。

皆婚時代は遠くになりにけり
ほとんどの人が結婚していた。
別の角度からいえば、
結婚したくない人も結婚しなければいけなかった時代があった。
歴史的に紐解けば、
結婚なんてものはお互いが分かっていれば良かった時代もあるし、
いちいち結婚に縛られない時代もあった。
とはいえ、地域で子どもを育てるのが当たり前の社会があったからこそ、
結婚して家族を持つ必要がなかっただけで、
地域社会という大きな家族が存在したからこそなり得た。
シングルマザー向けのシェアハウスなどは、
現代社会に置ける結婚以外のコミュニティーの充実と言えるかもしれない。
皆婚時代を支えていたのは、言うまでもなく、
「結婚しなければ一人前ではない。」と言う大義名分である。
これがあるからこそ、
「結婚しなければ恥ずかしい。」
「結婚しなければ人格を疑われる。」
「子どもが行き遅れる。」
などを理由に、
あの手この手で皆が結婚していったわけだ。
現代の結婚したい人にとっては夢のような話である。
婚活などという面倒なことをしなくても、
縁談は向こうからやってきたのだ。
婚活には見えない壁がある
結婚したくないのに結婚させれた人たちにとっては、地獄のような時代だったかもしれない。
その煽りで熟年離婚も話題になるようになったのかもしれない。
とはいえ、結婚して5年までの離婚が最も多いので、
熟年離婚も話題になっているだけでそれほど多くないのかもしれない。
結婚観の歴史を振り返れば「皆婚時代」は異常だったのだけれど、
その異常な皆婚時代が日本の高度経済成長を生み出したとも言えるだろうし、
現状を見れば、高度経済成長に後押しされた皆婚時代だったのかもしれない。
婚活支援をしていて、間違いなく分かることは、
「結婚したい人」というのはいるということだし、
予想できるのは「自分に何らかの欠陥を見出して結婚してはいけないと思っている人」もいるということじゃないだろうか。
もちろん、なんとなくではあるが「超ソロ社会」の著者である荒川和久氏のように「結婚を望まない人」もいるし、
結婚が許されない同性婚のように、日本の結婚制度的に結婚できない人たちもいる。
「結婚してはいけない」と諦める人たちの中には、
低所得とか、貧困家庭で育ったとか、子どもが産めないとか、子どもの頃に虐待を受けただとか、
「結婚したら幸せになれないだろう」と社会だけではなく、自分にレッテルを貼ってしまっている人もいる。
低所得だろうが、貧困家庭で育とうが、子どもが産めなかろうが、子どもの頃に虐待を受けていようが、
幸せな結婚生活を送っている人がいないとは言い切れない。
幸せになるかどうかは、自分のさじ加減で決まるものだからだ。
しかし、
「結婚したいのになかなかできない」「結婚してはいけない」と思わざるを得ないのは、
社会の課題ではないかなと思う。
この課題をクリアしていくためには、
結婚、いや、婚活のバリアフリー化が不可欠であると思っている。
婚活には見えない壁がある。
社会に変化が求められている

昔、質屋に行くのは恥ずかしかった。
そもそも質屋に行くときは「お金に困った時」であったからだ。
時代は変わって、ものが溢れる社会になると、
質屋はリサイクルショップと名前を変えて、
循環型社会として「不要なものは必要な人の元へ」と大義名分を得たので、
リサイクルショップにはそれほどの抵抗はないだろうと思う。
もちろん、その中には「お金に困って…」の人もいるだろうけれど、
そんなのは知らぬ顔を通せば良いのである。
しかしながら、
婚活、特に結婚相談所は、
「結婚に困った時」に行く場所なのだ。
そして、
「結婚できない人」
「ガツガツ結婚したい人」
というレッテルが貼られる。
結婚できないわけではない。
結婚が難しい社会になっただけなのだ。
ガツガツという言葉が悪い。
前向きに結婚を考えて行動している人なのだ。
婚活の現状は、
「結婚したくなったら行うもの」である。
しかしながら、
何度も何度も書くが、
「婚活さえすれば、すぐに結婚できる」というのレアケースである。
地道に婚活してようやく結婚相手が見つかるのが現状だ。
そう考えると、
ライフプランの中に【結婚】のイメージがあって、
相手がいないのであれば、
「結婚したい」と強く強く思う前に行動すべきである。
お金に困ってから質屋に出かけるのではなく、
結婚に困ってから結婚相談所に出かけるべきじゃないということを社会全体が知るべきだ。
質屋であれば、すぐにお金に変えてくれるかもしれないけれど、
結婚について言えば、すぐに結婚相手を連れてきてくれるわけではない。
そういった婚活事情をより多くの人が知って行くことが、
そういった社会へと変化して行くことが、
婚活のバリアフリー化を進める。
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